保護者組織の変遷 令和のPTAは?
戦後のPTAの歩み
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)の指導により、日本の教育の民主化が推進されました。その一環として、学校と家庭が対等な関係で協力し、政府の干渉を受けない民主的な組織としてPTAが導入されました。これにより、戦前の「後援会」や「保護者会」は解消され、任意団体としてのPTAへと再編されていきました。戦後のPTAは、高度経済成長期を経て学校運営に欠かせない組織となりました。
しかし、2020年代に入り「強制加入」や「上部組織のあり方」などが問われ、現在は歴史的な転換期を迎えています。
| 戦後教育改革とPTA誕生期 | |
| 1945年 | 第二次世界大戦終結し、GHQ主導の民主化政策による教育制度抜本改革の開始 国家統制的色彩が強い戦前の「父兄会」「後援会」は、解体の対象に |
| 1946年 | 米国教育使節団が来日し、アメリカ型民主主義教育の導入検討 報告書で父母と先生の協力組織(Parents and Teachers Association)を推奨 |
| 1947年 | 教育基本法・学校教育法公布、文部省が「父母と先生の会―教育民主化の手引」を発行 各地で新しい形のPTAが自然発生的な設立が増加 |
| 1948年 | 文部省がPTAを「任意団体」と位置づけ、学校の下部組織ではないことを明示 都道府県単位や市区町村単位のPTA連絡組織が誕生 |
| 全国組織の成立と定着 | |
| 1950年 | PTA活動が全国の小中学校へ急速に拡大 |
| 1950年 | 日本父母と先生の会全国協議会、現在の日本PTA全国協議会(日P)設立 |
| 1952年 前半 |
PTAの三原則(自主性、民主性、非営利・非政党性)が共有 |
| 1952年 後半 |
学校行事支援、校舎整備、通学路安全活動が中心活動になり、母親の参加が特に重視される時代背景 |
| 1960 年代 |
高度経済成長期、都市部でマンモス校が増加、 PTAの組織化・役員制度が複雑化、学校行事・地域行事の運営補助が常態化 |
| 1964年 | 東京オリンピック、青少年健全育成、防犯や交通安全活動、学校給食の充実など社会活動が活発化 |
| 1967年 | 「子どもに見せたくない番組」の調査開始、メディアへの社会的影響力 |
| 課題の表面化、社会変化への対応期 | |
| 1970 年代 |
専業主婦世帯が多く、役員は女性中心、PTA活動が慣例化、義務化しているとの批判 組織が官僚化し、会費徴収、役員決めの負担や強制的な全員加入への不満が潜在化 |
| 1980 年代 |
いじめ、登校拒否や校内暴力が問題化、学校・地域・家庭の橋渡し役としてPTAの役割に期待 共働き家庭の増加により、PTA活動の負担問題が顕在化、研修や講演会中心の活動が増加 |
| 1990 年代 |
少子化の進行で学校統廃合、PTAの存在意義・活動内容の見直しが各地で進行 ボランティア活動、地域連携型PTAが出現 |
平成時代のPTA
2000年代後半〜2010年代にかけてのPTAは、活動そのものの是非、任意性の明確化、活動参加の負担軽減などが、保護者・学校・自治体の共通テーマになっています。この時代にポイント以下の通りです。1.役割の見直し
PTAは従来から「学校行事支援」「安全対策」「物的支援」などを担ってきたが、社会環境の変化に伴い、その範囲や重点が再検討される流れが加速2.参加形態の変化
従来の「全保護者が自動的に加入」「重い役員負担」のスタイルから「任意参加」「柔軟な組織運営」議論が開始3.社会構造との関連
共働き家庭増加により、日中の活動参加へのハードルが大幅に上昇するなど活動負担に関する問題意識増加、少子化による保護者数減少によるPTA活動の担い手不足が顕在化4.デジタル化とコミュニケーション
情報共有の手段が変わり、紙ベース・対面依存型からICTやオンライン連絡中心の活動へ変遷する動きが加速2000年代は、インターネットと携帯電話の普及によるデジタル化の本格化、小泉内閣の「自己責任論」や「格差」問題の顕在化、そして「冬のソナタ」に始まる韓流ブームや「だっちゅーの」などの流行語に見られるように、多様な文化が断片化しつつも個人の選択が尊重され始めた時代で、IT革命と社会構造の変化が加速した過渡期でした。
2010年代は、、スマートフォンが普及してデジタル化が加速し、ポピュリズムの台頭や「アラブの春」、気候変動問題、ISILのテロなどが世界で起こり、日本ではアベノミクスや安全保障関連法案、Z世代の台頭、J-POPの進化などが特徴的な時代でした。
| 透明化と改革の模索 | |
| 2000 年代 |
個人情報保護法施行(2005年)により名簿管理が課題に 入退会自由を明確にする動きが一部自治体で進展 PTA会計の不透明さが社会問題化する事例も発生 |
| 2003年 以降 |
インターネットや携帯の普及が進み、情報共有の形が変化 保護者同士のネットベースの連絡が増加 |
| 2000年 代後半 |
PTA参加=母親の役割という文化的な実態が引き続き指摘され、保護者参加の負担感に関する議論が継続 |
| 2008年 以降 |
日本社会全体が情報化・デジタル化を加速 スマホ登場で保護者や学校のコミュニケーション環境が変化 |
| 任意性・多様性の再確認 | |
| 2010年 | 熊本市のPTA加入を巡る訴訟、PTAが「任意団体」であることが法廷で再確認 |
| 2010 年代 |
少子化の進行による学校規模縮小が進む中、PTA会員数の伸び悩みが課題に できる人が、できるときに、できることを」という活動理念が拡散 外国人保護者、ひとり親家庭への配慮が課題に |
| 2012年 | ネット上で「PTA不要論」や「ブラックPTA」という言葉が広まり、活動見直しが加速 |
| 2016年 | 働き方改革が国の主要政策に掲げられ、PTA活動は「労働負担」という視点となり、PTA活動も働き方改革の対象との議論 |
| 2018年 | PTA会費や強制加入に対する批判がSNS・ネットで増加、加入の任意性を明示しようという動きが各地で発生 |
| 2018年 以降 |
文科省や自治体側でもPTA活動の負担軽減・参加しやすさ向上について意見交換が進み、家族構成の多様化、父親参加、共働き世帯の事情」を反映した活動見直し議論が顕在化 |
令和時代のPTA
| コロナ禍による社会の変化 | |
| 2020年 | 新型コロナウイルス流行、PTA活動の中止や大幅縮小 オンライン会議や連絡ツールの導入が一部で進むなど活動形態の多様化へ |
| 2021年 | コロナ禍を契機に、従来の活動負担の大きさや強制加入的運用への疑問が各地で議論となり、任意性・活動内容の精選に向けた検討が拡大 PTA解散・スリム化・任意参加型への移行事例が増加、学校支援ボランティアや地域協議会への統合も進む |
| PTA活動の転換期 | |
| 2022年 | 日本PTA全国協議会の運営課題、会員数減少の兆候が一部で表面化 |
| 2023年 | 日本PTA全国協議会の会長交代や運営・決算の透明性に関する批判が顕在化 PTAの運営実態や公益性について、学校現場だけでなく教育委員会や自治体でも制度的な見直し論 1月 新たな全国組織としてフラットな連携を目指す「全国PTA連絡協議会」が発足 |
| 2024年 | 日本PTA全国協議会に対する、内部運営の不透明さやガバナンス不全が表面化、内閣府から公益法人としての適正運営について改善指導 埼玉県PTA連合会から休会や退会する市町村PTA連合会が相次ぎ、県P連の組織率が大きく低下 |
| 2025年 | 3月 加盟団体減少や資金難が主因として岡山県PTA連合会が解散 4月 日本PTA全国協議会(日P)の加盟団体が54団体に減少。1年で会員数が約95万人減少する事態に 9月 全国PTA連絡協議会(全P)が、保護者の声を国に届ける独自の調査事業を開始 |
2025年の主な変化
戦後、教育を「国から国民の手に取り戻す」ための装置として生まれたPTAは、現在、地域コミュニティにおける学校運営協議会(コミュニティ・スクール)などの新しい仕組みとともに、その役割を再定義の時代を迎えています。強制加入から任意加入へ
多くの学校で、入学時に意思確認を行う「入会届」の提出が一般的になりつつあります。またコンプライアンス面で、個人情報の取り扱い、会計処理についても適正化が進んでいます。
上部組織の関係性の見直し
日Pへの分担金が活動に見合っていないとして、都道府県・市区町村単位での離脱が出始めています。また道府県や市区町村単位のPTA連合会との関係を見直すケースも増えています。
スリム化と外注
ITCの積極活用による効率化、一部業務の民間委託などスマートなPTA活動を目指す流れが加速しています。日本PTA全国協議会 退会事例
2023年3月末
- 東京都PTA協議会
2024年6月
- さいたま市PTA協議会
2025年 3月末
- 埼玉県PTA連合会
- 千葉県PTA連絡協議会
- 静岡県PTA連絡協議会
2023〜2024年
- 横浜市PTA連絡協議会※
2024〜2025年
- 千葉市PTA連絡協議会※
- 相模原市PTA連絡協議会※
- 報道ベース
戦前の保護者団体の特徴と活動
明治維新以降の日本では
明治維新以降、わが国の近代教育は中央政府の強い主導のもとで整備が進められましたが、実際に学校を支える基盤となったのは、子どもを通わせる父母や地域住民でした。学校の設立や運営に必要な資金や労力の多くは、保護者や地域の協力によって賄われており、「彼らは教育を「お上から与えられるもの」として受け止めていました。
そのため、行政の教育方針に対して積極的に異議を唱えることは少なく、子どもの成長を願いながら、学校を支援する役割を黙々と担っていきました。
このように、近代教育の成立過程には、表立って発言することは少なかったものの、学校を陰で支え続けた保護者や地域社会、すなわちPTA的な存在の姿があったと考えられています。
明治後半から大正時代の日本では
1870年代末以降、日本では国家主義的な考え方にもとづく教育が次第に強まっていきました。1890年(明治23年)に示された教育勅語では、道徳を重んじることや、日本人としての自覚を育てることが教育の目標として明確にされました。
その方針のもと、師範学校で専門的な教育技術とともに、天皇制国家への忠誠心や愛国心を育成された教員が、各地の学校で教育にあたりました。父母や地域社会は、こうした教員を信頼し、子どもや若者の教育を主に学校に委ねるとともに、学校の教育活動を支え、協力する立場で関わっていきました。
戦前の日本では
戦前の日本には、現在のPTAに直接相当する組織はありませんでしたが、各学校には「後援会」「保護者会」「有志会」「父兄会」「母の会」といった保護者や地域住民による任意の団体が存在していました。
これらの組織は、戦後のPTAとは異なる性質と活動内容を持っており、学校への「奉仕」や「後援」が強調され、国家教育体制を側面から支える役割も果たしていました。
主な目的は資金・物資の援助
- 戦前の学校は、運営費を主に市町村からの財源に依存していましたが、予算が十分でないことが多かったため、これらの団体は学校運営の財政的・物資的な支援を主要な活動としていました。
- 学校設備の維持管理、教材の購入費、教員の福利厚生費などを寄付や会費で賄っていました。
学校や校長の強い指導・支配下
- これらの団体は、保護者と教員が対等な立場で運営する現在のPTAとは異なり、学校側、特に校長によって指導・統制される傾向にありました。
- 保護者の側から学校運営に意見を言ったり、教育方針に積極的に関与したりする機会は限られていました。
活動内容
- 寄付金の募集・集金活動
- 学校行事への労働奉仕(例:奉安殿建設の際の手伝いなど)
- 学校教育を補完するような活動(例:地域での青少年の非行防止活動)
- 特に「母の会」などは、女性の伝統的な役割や地位を固定化する傾向があったとされています。
戦後の教育行政の民主化
第二次世界大戦後の日本の教育行政は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導のもと、従来の中央集権的・国家主義的な体制から、民主化、地方分権、自主性の確保を基本理念とする体制へと大きく転換されました。
この戦後の民主化プロセスは、教育を国家の道具から「人格の完成」と「主権者の育成」のための場へと変える重要な役割を果たしました。
民主化の基盤となる法律の制定
1947年(昭和22年)、日本国憲法の精神に則り、教育の目的や理念を定めた教育基本法が制定されました。
この法律により、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負う教育行政のあり方が示されました。また、同年には学校教育法も公布され、六・三・三・四制の単線型学制が導入されました。
教育行政の三原則
戦後改革において、教育行政は以下の3つの原則を柱として再編されました。| 教育における民主化 | 公正な民意を反映させ、特定の権力による支配を防ぐ |
|---|---|
| 地方分権 | 中央政府(文部省)への権限集中を廃し、地域の実情に応じた教育を行う。 |
| 自主性の確保 | 一般行政から独立し、政治的な影響から教育の中立を守る。 |
教育委員会制度の創設
これらの原則を具体化するため、1948年に「教育委員会法」が制定され、教育委員会制度が発足しました。| 公選制 | 当初、教育委員は住民の直接選挙によって選ばれ、教育に対する住民自治が重視されました |
|---|---|
| 合議制 | 教育行政の意思決定を、首長(知事や市町村長)から独立した合議制の機関が行う仕組みとされ |
制度の変容(1956年の転換)
1956年(昭和31年)、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)」が制定され、大きな転換を迎えました。| 公選制から任命制へ | 教育委員が選挙ではなく、首長による任命制へと変更 |
|---|---|
| 文部省の指導力強化 | 国の地方に対する指導・助言権限が整理され、戦直後の徹底した分権化から、国・県・市町村の連携や責任の明確化を重視する方向へ調整 |
教育行政の民主化とPTA
第二次世界大戦後の教育行政の民主化において、PTA(Parent-Teacher Association:父母と先生の会)の結成は、学校と家庭、地域社会を結びつける民主的な教育体制を構築するための象徴的な施策の一つでした。
導入の背景:GHQによる奨励
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の米国教育使節団は、日本の教育を民主化するために、保護者が学校運営に関与する仕組みが必要であると提言しました。
1947年頃から文部省(当時)の奨励により、全国の学校で従来の「保護者会」や「後援会」が解散・改編され、米国をモデルとしたPTAが急速に組織されました。
教育行政の民主化におけるPTAの役割
PTAは、教育行政が目指した「教育の民主化」と「地方分権」を支える実働組織として、以下の役割を期待されました。
教育の私事化から公事化へ
戦前の学校は国家が管理するものでしたが、PTAを通じて保護者が教育に関心を持ち、意見を表明することで「自分たちの学校」という主権者意識を育むことが目的とされました。学校運営への協力とチェック
教育委員会制度(公選制)と同様に、行政や学校の独断を防ぎ、地域住民の意向を教育に反映させるためのパイプ役となりました。社会教育の拠点
大人たちが民主主義を学ぶ場(成人教育)としても機能し、民主的な議論の進め方や組織運営を実践する場となりました。戦後教育における功罪と変容
PTAは民主化に大きく寄与した一方で、歴史的な課題も抱えてきました。
経済的支援(補習教育)
戦後の深刻な財政難の中、PTA会費が教職員の給与補填や校舎の修繕費に充てられるなど、実質的に「学校財政の補助機関」として機能せざるを得ない時期がありました。 これは「教育の公費負担原則」との兼ね合いで議論の対象となりました。組織の硬直化
本来は自由意志による任意団体ですが、行政や学校からの要請により「学校の下請け組織」のような形になりやすく、民主的な自主性が失われるケースも散見されました。教育行政の民主化とPTAの関係
PTAは、教育行政の民主化を具体的に支える存在と位置づけられます。つまり、PTAは教育への国民参加を実現する手段であり、教育行政の民主化を現場レベルで体現する組織です。
- 保護者(市民)が学校教育に参加する仕組み
- 教育を「行政任せ」にせず、国民が主体的に関わる
- 学校運営に多様な意見を反映させる役割
中央集権的・統制的な教育行政を改め、
- 国民の意思を反映
- 地方分権を進める
- 学校と地域社会の主体性を重視
- 保護者と教員が対等な立場で
- 子どもの教育や学校運営を支援
- 学校と家庭・地域をつなぐ
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